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グレゴリウス暦制定物語


グレゴリウス暦は「グレゴリオ暦」とも呼ばれますが、グレゴリウスはラテン語名ですので同じものと思ってください。

日本でグレゴリウス暦と言えば、

  • 西暦年が4の倍数なら閏年
  • ただし西暦年が100の倍数なら閏年としない
  • ただし西暦年が400の倍数なら閏年とする

という置閏法で知られているかと思います。学校ではそのように教えています。

グレゴリウス暦以前の暦は古代ローマユリウス・カエサルが定めた「ユリウス暦」で、閏年は4年に一回ですから、グレゴリウス暦は他2項を追加した分だけ精度が上がっているという事。

日本でのこの置閏法の説明は、グレゴリウス暦の内容というより、明治に公布された太陽暦導入に関する太政官布告と勅令の内容を説明しているもので、グレゴリウス13世の改暦の布告の説明とは言い難いでしょう。

今回はこのグレゴリウス13世の改暦の布告にどのようなことが書かれているか抜粋しながら説明したいと思います。原文はラテン語です。

布告は1582年2月24日に聖ローマ教会(S.R.E.=Sacra Romana Ecclesia)の名で発布されました。ちなみにこの日付はユリウス暦です。

改暦の趣旨

布告冒頭で改暦の趣旨が説明されています。

それは、1545年に開催されたトレント公会議ローマ教皇に裁定を一任された問題があるというのです。それが当時の暦、すなわちユリウス暦の日付が、観測される太陽や月の位置とずれているという問題です。

それで困ってしまうのはキリスト教最大の祝いの日である復活祭の開催日です。

復活祭はイエスの復活を祝う日で、聖書は、イエスが処刑されされたのはユダヤ教の祝日である過越祭の前日で、処刑の日から3日目の日曜日に復活したと伝えています。

過越祭はユダヤの教義にのっとって春分の後の満月の日に行うのですが、春分は天体観測を行う事で知り得る日ですが、ユダヤの暦は太陽太陰暦ですのでそれはさしたる問題ではありませんでした。

しかし太陽暦であるユリウス暦を使用するキリスト教世界ではどうにも使い勝手が悪いのです。それで4世紀のニカイアの公会議では春分の日ユリウス暦の日付で3月21日とすることに決めてしまいましたが、それはいささか配慮不足でした。

数年数十年のスパンではそれで大きな問題はならないのですが、数百年も経てばユリウス暦の精度不足の問題が表面化するようになります。3月21日が天体観測上の春分と数日単位のズレが生じ始めるのです。

上に書いた復活祭の日を決めるルールを読み返していただきたいのですが、春分が数日ずれると次の満月の日の選定が1か月ズレる可能性があるのです。そうなると何が起こるでしょう。

ユダヤ教徒が過越祭を行って、その1か月も後にキリスト教徒が復活祭をやるなんてことになってしまいます。聖書には過越祭の数日後にイエスが復活すると書いてあるではないですか。それを指摘されても間違っているのはキリスト教の方なのですから教会のメンツは丸つぶれです。

それを何とかせよ、というのが「トレント公会議ローマ教皇に裁定を一任された問題」です。

問題整理

一見、原因も解決も至極単純に思えます。問題整理もなにも、もはや3月21日が春分の日でないのが原因の全てなのだから、ちゃんと天体観測して日にちを改めればそれで済むはずではないか、そう思ったでしょう。しかし問題はもう少し複雑です。

キリスト教には聖人歴がありはそれこそ年がら年中何某かの祝祭をやっているのです。復活祭の日程を変えると、前後関係がある他の祝祭も一緒に動かさなければならなくなり、例えば9月1日が誕生日の人の祝いを来年から8月25日に行いますと言われても簡単に「相分かった」というわけには行けません。そういった事情で問題を認識しながらこの時まで解決ができずにいたのです。

もう一つの案が3月21日が春分の日になるように暦そのものをスライドする案です。この場合、日にちを後送りにスライドできるなら良いのですが、この時生じているズレは10日分、日にちを1前送りにスライドして補正すべきものですので、その10日が暦から消え、その中で行うはずの祝いが行き場をなくしかねない事になります。

いずれにしても何かを捨てなければ解決ができないのです。

教皇の選択

さて教皇グレゴリウス13世の選択はどうだったでしょう。

選択は上記案のうち後者でした。すなわち暦を10日分前倒しにスライドさせることにしました。

そのため1582年10月の暦はかなり変わったものになりました。

1582年10月の暦

布告

折角ですの布告の内容も見てみましょう。原文はラテン語ですが

Considerantes igitur nos, ad rectam paschalis festi celebrationem  〜 tria necessaria coniungenda et statuenda esse;

 したがって、(中略)復活祭を正しく祝うためには、以下の3つが要件を組み合わせ確立しなければなりません。

  • primum, certam verni aequinoctii sedem;
    ます、真春分の位置
  • deinde rectam positionem XIV lunae primi mensis, quae vel in ipsum aequinoctii diem incidit, vel ei proxime succedit;
    次に、真春分の当日または直後の月齢第14日
  • postremo primum quemque diem dominicum, qui eamdem XIV lunam sequitur;
    最後に、その第14日の後の最初の日曜日

既に説明した事ですが、復活祭を行うべき日の確認しようとしています。

Quo igitur vernum aequinoctium, quod a patribus concilii Nicaeni ad XII kalendas aprilis fuit constitutum, ad eamdem sedem restituatur, praecipimus
その上でニカイア公会議の教父たちによって4月カレンダエ12日前(3月21日)と定められた春分を、本来の位置に戻るよう定め、
et mandamus ut de mense octobris anni MDLXXXII decem dies inclusive a tertia nonarum usque ad pridie idus eximantur, 
1582年10月のノーナエ3日前(=5日)からイードゥス前日(=14日)までの 10日間を除外するよう定めます。

春分を決まった日にちではなく天体観測による真春分を採用することと、1582年10月の暦から5日〜14日を除外する、つまり10月4日の翌日が10月15日ことを定めています。

et dies, qui festum S.Francisci IV nonas celebrari solitum sequitur, dicatur idus octobris,
そして、ノーナエ4日前(=4日)の恒例聖フランシスコ祭は 10月イードゥス(=15日)に当て、
atque in eo celebretur festum Ss.Dionysii, Rustici et Eleutherii martyrum, cum commemoratione S. Marci Papae et confessoris, et Ss. Sergii, Bacchi, Marcelli et Apulei martyrum;
さらのその日に、殉教者大聖ディオニシウス、ルスティクス、エレウテリウスの祝祭が、聖マルクス教皇と告白者の祝祭、大聖セルギウス、バッカス、マルセルス、アプレイウスの殉教とともに行われる。
septimodecimo vero kalendas novembris, qui dies proxime sequitur, celebretur festum S. Callisti Papae et martyris;
しかし、その直後に続く11月カレンダエ17日前(=10月16日)には、聖カリストゥス教皇と殉教者の祝祭(10/14)が行われる。
deinde XVI kalendas novembris fiat officium et missa de dominica XVIII post Pentecostem, mutata littera dominicali G in C;
その後、11月カレンダエ16日前(=10月17日)に礼拝とペンテコステ(聖霊降臨日)後、主日文字G(水曜日)をC(日曜日)に変更して第18回日曜ミサを行います、
quintodecimo denique kalendas novembris dies festus agatur S. Lucae evangelistae, a quo reliqui deinceps agantur festi dies, prout sunt in kalendario descripti.
最後に、11月カレンダエ15日前(=10月18日)に聖ルカ伝道者の祝祭がおこわれ、以降は暦に記載された通りに残りの祝日が祝祭されます。

日付で出てくる「イードゥス」とか「カレンダエ」の意味は、以下の記事の解説を見てください。

seiichis.hatenablog.com暦から消えた10月5日〜10月14日に行うはずだった祝祭のやりくりを定めています。個別の説明は省きますが、復活祭の日付を10日動かそうとすると、これだけのインパクトがあったという事です。

さらにこんなことも書かれています。

Ne vero ex hac nostra decem dierum subtractione, alicui, quod ad annuas vel menstruas praestationes pertinet, praeiudicium fiat, partes iudicum erunt in controversis, quae super hoc exortae fuerint, dictae subtractionis rationem habere, addendo alios X dies in fine cuiuslibet praestationis.
この10日間の削除が、人々の年次・月次の支払いに不利益害を及ぼさないようにするために、担当判事は、これに関して生じた訴訟において上記削除に配慮し、各支払いを10日間延期するものとします。

まあそれはそうだという気はします。

それとこんなことになったそもそもの原因、ユリウス暦の改定をしなければなりません。布告は下記の通りです。

Deinde, ne in posterum a XII kalendas aprilis aequinoctium recedat,
 次に、将来春分の日が 4月カレンダエ12日前(3月21日)から後退しないように、
statuimus bissextum quarto quoque anno (uti mos est) continuari debere,praeterquam in centesimis annis;
100年ごとを除いて、4年ごとに (これまで通りに)閏年を継続することを定めます。
qui, quamvis bissextiles antea semper fuerint, qualem etiam esse volumus annum MDC,
これは以前は常にうるう年でしたが1600年もそのようにしたいと考えていますが、
post eum tamen qui deinceps consequentur centesimi non omnes bissextiles sint,
その後に続く100年毎はすべて閏年とせず、
sed in quadringentis quibusque annis primi quique tres centesimi sine bissexto transigantur,
ただし、400年内の100年毎の最初の3回は閏年とせず、
quartus vero quisque centesimus bissextilis sit, ita ut annus MDCC, MDCCC, MDCCCC bissextiles non sint.
400年目は閏年とし、1700年、1800年、1900年は閏年ではないようにします。
Anno vero MM, more consueto dies bissextus intercaletur, februario dies XXIX continente,
しかし、2000年は通常の方法で閏日が挿入され、2月に29日を挿入し、
idemque ordo intermittendi intercalandique bissextum diem in quadringentis quibusque annis perpetuo conservetur.
そして、同様の閏日の挿入の順序が、400年ごとに永久に継続されるものとします。

要するに本記事冒頭に書いた置閏法のルールはこういう表現で定められています。