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フランス共和暦

テーマ

フランス革命期に使われた「共和暦」、「テルミドールのクーデター」「ブリュメールのクーデター」等の事件名で見え隠れするものですが、革命の終焉と共に廃止されたこの暦を現代に蘇らせようというというのが本書のテーマです。
平たく言えば、「今日は共和暦の日付では○○月××日です」と言ってみたいという事です。なぜなら「テルミドールのクーデター」とか格好良いではないですか。

この事についてネットを検索すると、口を揃えて「それはできません」という解説ばかりです。
理由としては「なぜなら共和暦は閏年の定義が未完了だからです」という事ですが、さてそれは本当でしょうか?
それが定説となっているなら、これから説明する事は共和暦の「修復」といって良いでしょう。

修復は可能ですので興味のある人は先を読み進んでください。

なお、共和暦は「フランス革命暦 Calendrier révolutionnaire français」とも呼ばれますが、ここでは「共和暦 Calendrier républicain」で統一します。

革命

共和暦の修復の前に、フランス革命の経緯を簡単に振り返っておきます。

フランス革命は「2階建て」の革命です。
革命当初に革命を主導したのは金持ちの平民すなわち「ブルジョワ」で、彼らブルジョワの革命が1階部分です。このブルジョワ革命の中でさらにジャコバン派極左勢力が台頭して共和制を樹立し独裁的な政治を行ったのが2階部分です。
この2階部分は1794年のテルミドールのクーデターで短命のうちに消失するのですが、1階部分は後のナポレオン帝政以降においても、政体以外の諸制度は、という事になりますが継承されていきます。要するに当時のフランス内部諸勢力のパワーバランスの重心は1階部分にあったのだという事なのでしょう。

さて、共和暦は2階部分の改革の一環で行われています。冒頭で「革命暦」ではなく「共和暦」に統一するとしたのもこの理由からですが、そのため共和暦は2階部分消失後に推進者を無くし、1799年ナポレオンが第一統領として権力を握った時、1805年12月31日をもって共和暦を廃止することをローマ教皇と合意します。
結局共和暦が使われたのは13年間という事になります。

 

我々が日常で使う暦、グレゴリウス暦は大の月と小の月が不規則に並ぶいささか歪な暦です。誰しもそう感じたことがあるのではないでしょうか。それをきれいさっぱりに整理しようという事です。

共和暦は革命の1792年9月22日から実際に使われ、1805年12月31日を最終日として革命の終焉と共に廃止されました。「テルミドール」、「ブリュメール」等、世界史に出てくる単語は共和暦における月の名前です。共和暦の日付の名称がつけられた出来事は、共和暦が使われた期間の出来事であることを示しています。

共和暦の日付

共和暦はグレゴリウス暦の面倒臭さ最大の原因である月の日数の不揃い、不規則を一掃し、全ての月を30日としました。
これで月は見違えるようにすっきりするのですが、そうすると1年は365日か366日なので、30日の月を12回おくと、5~6日の余りができてしまいますが、この余りをどの月にも属さない祝日、名付けて「サンキュロットの祝日 sanculotides」としました。
余りを最後に纏めたため、各月には31日という素数は消えて、30日というキリの良い数で統一されました。
さらに曜日は従来の「七曜」を「十曜」に改めました。とにかく「10の倍数に統一すべし」という事です。
上記から共和暦のカレンダーは以下のようになります。
①~⑩は曜日です。

1月 vendémiaire (葡萄月)
 ①  ②  ③  ④  ⑤  ⑥  ⑦  ⑧  ⑨  ⑩
 1  2  3  4  5  6  7  8  9 10
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

2月 brumaire (霧月)
 ①  ②  ③  ④  ⑤  ⑥  ⑦  ⑧  ⑨  ⑩
 1  2  3  4  5  6  7  8  9 10
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
            ・
            ・
12月 fructidor (果月)
 ①  ②  ③  ④  ⑤  ⑥  ⑦  ⑧  ⑨  ⑩
 1  2  3  4  5  6  7  8  9 10
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

サン・キュロットの祝日(sanculotides)
 1  2  3  4  5 (6)

共和暦のカレンダーはグレゴリウス暦のように毎年違うカレンダーになる事はありません。異なる可能性あるのは、最終日の「(6)」、閏日があるか否かのみです。
「5月14日は何曜日だろうか・・・」などと調べることもありません。④曜日に決まっているからです。
今までグレゴリウス暦のためにどれだけしなくていい苦労をしてしまったのか・・と思えてきます。
ところが共和暦は当時のパリ民衆には大不評だったようです。理由は7日に一回の日曜日の休日が、10日に一回になってしまうからです。メートル法は革命後も残り世界に広まりましたが共和暦は革命と共に消えた理由はそういうところにあるのでしょう。

共和暦は日付だけではなく時刻も変更し、「24」とか「60」という数字を排除し、十進数化しています。
すなわち、

  • 1日は10時間
  • 1時間は100分
  • 1分は100秒

です。
1日は10万秒という事になります。

3時78分7秒から4時25分99秒まで何秒かかるか?
答えは、4792秒(=42599-37807)で、それは47分92秒です。
もはや快感です。
実際にこの十進時間の時計も作られましたが、当時のフランスの人はさぞかし時刻で混乱した事でしょう。フランス国内ならまだしも、外国人とどこかで決まった時刻待ち合わせようとすると少なからず行き違いがあったに違いありません。

共和暦は1792年9月22日を元年(=第1年)元日(=1月1日)として始まりましたが、だからと言って翌年以降グレゴリウス暦9月22日が共和暦元日という訳ではありません。
それが成り立つのは、共和暦の閏年のルールをグレゴリウス暦と同じであると定めた場合ですが、共和暦はその選択をしませんでした。
この話は本書の肝の話なので、後で改めて説明する事にします。

月や日の名前

共和暦は確かに簡明で合理的ですが、反面「無機質」と感じられます。そのためかグレゴリウス暦に倣って各月に名前が付けられました。
グレゴリウス暦の月名は古代ローマ時代につけられたもので、ローマの神とカエサルアウグストゥスの名前が月名となりました。

フランス革命の精神としてはこういう宗教や権威を崇めるためのネーミングは不合理な事として排除され、代わりに自然や人々の生活に基づいた名前としたのでしょう。

曜日には名前を付けませんでしたが理由は分かりません。
その代わり、という訳ではないでしょうが、366日全てに名前を付けました。さすがに覚えきれなかったようですが、ゲン担ぎの足しになるかもしれないのでこれは巻末に乗せておきます。

月名の話に戻りますが、自然や人々の生活に基づいたと説明しましたが、共和暦の1月はグレゴリウス暦の9月~10月である事は留意してください。でないと、月名と季節の出来事が合わなくなってしまいます。

フランス革命暦
  • 1月 vendémiaire 葡萄の月
  • 2月 brumaire 霧の月
  • 3月 frimaire 霜の月
  • 4月 nivôse 雪の月
  • 5月 pluviôse 雨の月
  • 6月 ventôse 風月
  • 7月 germinal 芽月
  • 8月 floréal 花月
  • 9月 prairial 牧月
  • 10月 messidor 収穫月
  • 11月 thermidor 熱月
  • 12月 fructidor 実月

元日と閏年

共和暦では毎年の秋分の日が元日と定められました。従って翌年の秋分の日が365日後ならその年は平年、366日後なら閏年という事になります。
ルールは簡潔なようですが、これは悪い選択でした。そんなルールでは一般人にとって閏年は不規則に挿入されるものとなり、天文学者でなければ暦を作れなくなってしまい、折角十進法中心に揃えた日付・時刻の系列に「不規則」が紛れ込んでしまいます。
共和暦は1792年9月21日に初めて国民公会が召集された日王政が廃止され翌日から共和制となったため、9月22日を元日としたのですが、全く偶然にこの日は秋分の日で、革命指導所はこの偶然に革命精神とは相いれないロマンなり天啓なりを感じてしまったのかもしれません。あるいは単に革命指導者には暦の基本的な知識がなかったのかもしれません。
その不合理は布告公布後すぐに天文学者のドランブルから指摘される事となり、閏年グレゴリウス暦にならったルールに変更する事が検討されたようですが、如何せん恐怖政治の混乱の中でうやむやになってしまいました。
結局公式に布告(decrée)された閏年のルールは下記の通り、秋分の日が元日ということです。
「Chaque année commence à minuit, avec le jour où tombe l'équinoxe vrai d'automne pour l'Observatoire de Paris.」
「各年はパリ天文台における真秋分日の真夜に始まる。」

この布告の中で「パリ天文台における真秋分日」というところには注意が必要です。フランスは時差「+1時間」とうっかり考えてしまいそうですが、それは現代の協定時刻の事であり、当時はそういうものはありません。パリ天文台は東経2度20分にあるのでグリニッジとの時差は「+0.16時間」という事になります。
これを間違えると真秋分の日付が変わり、共和暦を計算で求めることができなくなってしまいます。

上記に基づき日付の計算をしたところ、結果は下記の通りです。

秋分の日
(グレゴリウス暦)
共和暦年 共和暦閏年
1792年9月22日 I年  
1793年9月22日 II年  
1794年9月22日 III年 閏年
1795年9月23日 IV年  
1796年9月22日 V年  
1797年9月22日 VI年  
1798年9月22日 VII年 閏年
1799年9月23日 VIII年  
1800年9月23日 IX年  
1801年9月23日 X年  
1802年9月23日 XI年 閏年
1803年9月24日 XII年  
1804年9月23日 XIII年  
1805年9月23日 XIV年  
1806年9月23日 XV年 閏年
1807年9月24日 XVI年  
1808年9月23日 XVII年  
1809年9月23日 XVIII年  
1810年9月23日 XIX年  
1811年9月23日 XX年 閏年
1812年9月23日 XXI年  

上記の通り、秋分の日が特定できればその日は元日ですから他の日も秋分の日から何日後かを調べれば共和暦の日付に置き換える事は簡単にできます。

暦表データ

200年前のパリの秋分をどうやって調べるのかという事についてですが、これについてはNASAジェット推進研究所が公開している暦表データと呼ばれるデータがありますので問題ありません。

その他必要な理論も全てネットや書籍から拾うことができますので、三角関数などの数学が得意ででプログラミングに自信があればトライしてみてください。